No.025 自動車メーカー、エスプリの時代Act5 ダイハツ・フェローバギー

アメリカで流行していたサンドバギーにヒントを得て作られたのがフェローバギー。フェローのコンポーネンツを活用し、本場のメイヤーズマンクスとは一線を画すFRPボディを換装したクルマ。もちろん当時の軽自動車規格だからエンジンは360ccのわずか26馬力にすぎないが、車重は440kgに抑えられ、軽快なフットワークを可能とした。

 
D-BONE
2003年の東京モーターショーに参考出品された「D-BONE」。フェローバギーのスピリッツが生きる比較的最近の例。もちろん当時と比べれば何から何まで洗練されていることは間違いない。大切なことはダイハツが今でも遊び心を持ち続けていることだ。実際には同時期に参考出品された「コペン」が、実際に市販の陽の目を見ている。

ダイハツという会社は1907年(明治40年)に「発動機製造(株)」という名称で創立され、1951年(昭和26年)、現在のダイハツ工業(株)に改称されて今日に至っている。
1967年(昭和42年)にトヨタとの業務提携を始めてからは、トヨタ系列の会社のように思われているが、その遊び心のスピリッツはスモールカー(軽自動車)に強い企業の中にあっても、今なお脈々と生きているものと信じるし、信じたい。

その象徴的なクルマが1970年(昭和45年)、100台限定で発売された「フェローバギー」だ。
この遊び心満載のクルマに至る前にも、ダイハツには独特の洒落っ気というものがあった。1957年(昭和32年)、一世を風靡した、働くクルマ「ミゼット」にもその感性は宿っていたし、1965年(昭和40年)に発表された「コンパーノ・スパイダー」こそ、遊び心、冒険心、洒落っ気満載で、このメーカーはまさにそんなスピリッツに溢れていたのだ。
そして翌’66年に、現在の軽自動車王国の基盤とも言える「フェロー」がデビューする。「フェローバギー」は、実用一辺倒の軽自動車カテゴリーにあって、フェローをベースに文字通り遊びのエスプリを最大限に注入したクルマであろう。

当時アメリカではVW(ビートル)をベースにした「バギー」が若者たちの間で大流行していた。その中心的なビルダーは「メイヤーズマンクス」で、VWのシャシー(フレーム構造だったから、カスタマイズは比較的簡単だったらしい)を使って、ワイルドなバギーボディを換装。それを駆ってサーファー(みたいな)が海岸を疾走するシーンは、さすがに保守的な日本ではちょっと先走り過ぎの感はあったが、フレーム構造(今でこそほとんどの乗用車はモノコック構造だが、当時は逆にトラック同様フレーム構造が大半だった)のフェローをベースに、ダイハツはそれを実現させてしまった。
そこには、若者の夢に忠実なダイハツのエスプリが感じ取れる。まるで「クルマに遊びがあって、何が悪い!」と訴えているようでもあった。

残念ながら、フェローバギーは100台の限定だったから、目的が普及ではなかった。’68年の東京モーターショーで参考出品された、「スピード」、「ビーチ」、「カントリー」の3台のうち、その反響の高さに応えて「ビーチ」仕様が市販されたというのが実態だ。

その100台が、どこのどういう人の手に渡ったかはさだかではない。しかし、たった1台当時のダイハツ広報部には存在し、それに触れることが出来たのだ。

とにかく目立って困った!

通常は当時日本橋にあったダイハツ東京支社に広報車両を借りにいくのだが、どういうわけかこのクルマ、渋谷のNHKに取りにいった。なんかの番組に使っていたのだろう。
NHKの大道具施設の外に、赤と白のフェローバギーはあった。存在だけでワクワクするのは、その容姿が遊び目的の一点に割り切られていたからに他ならない。
シートはちゃんとしたビニールレザーだったが、むき出しのフロアも何も外装はすべてFRPだから、自動車という感じがしない。なんてったってドアもないのだから。

借りた時はまだ昼間だったので、照れもあってNHK近くの知人のデザイナー事務所で暗くなるまで時間を稼ぐ。そして、そこからどこをどう走ったかは覚えていないが編集部のある外神田まで夜の都内を走ったことだけは間違いない。
いくら40年近く前のこととはいえ、東京の道路にクルマと人通りは絶えない。走行中も誰ともなく「あれ、何!」とか、「かっこいいじゃんよ〜」といった声が聞こえてくる。聞こえるわけだ、屋根も何もないのだから。
当然、信号待ちを何度も強いられる。今度は近くを通る人たちの声ではないが、好奇の視線をビシビシ感じる。まだ20代の序盤だったからちょっぴり恥ずかしかった反面、妙な優越感も感じていたように覚えている。なんとなくハイな気分だ。

クルマに格別パワーはないけれど、軽いボディとも相まって、その走りは軽快そのもの。もとより操縦性うんぬんを論じるクルマではない。しかし、少なくても都市部を走るクルマとしては、いささか不適当であったことだけは確か。まさに海岸こそが似合うバギーそのものだったのだ。そういう割り切りが出来た時代でもあった。
そんな遊び心に用途を限定したクルマは、フェローバギー以後も国内メーカーから何台かが登場したように記憶するが、この国はそういう遊び心を捨て、機能一手張りでひたすら自動車大国へと進んでいくのであった。
もう、二度とこのようなエスプリはこの国からは生まれないのであろうか。いや、遊び心とは言わないまでも、クルマが画一化されているかに見える現在、まったく違う新たな付加価値は生んでいかねばならない時代だ。

フェローバギーのスピリッツに、そんなヒントが隠されているように思えてならない。

2009.07.14記


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